2016年1月8日金曜日

テキストを使って先生から一方的に学ぶというスタイルは古いのでは?

テキストを使って先生から一方的に学ぶというスタイルは古いのでは?


先生から一方的に学ぶ?


エラソーな先生
そもそも、先生から一方的に学ぶというスタイルは古いのでは?

従来の研修では、先生が壇上に立ち受講者の発言と言えば、質問するだけというスタイルでしょう。

どうやらこのスタイルは明治時代あたりから、確立しているようです。
ハッキリした資料がないので、あくまで推測です。
情報と言っても活版印刷が主流になる前です。

欧米諸国を視察してきた学者達が、日本で待っていた塾生に最新の知見を伝授したのが一方的な知識伝達のはじまりなのでしょう。
何しろ今と違って海外に行くだけで、膨大な費用がかかります。

選抜された学者達が国費留学するのですから、選考に漏れた学者達は外国からの知識を首を長くして待っていたことでしょう。
いま、大勢の日本人が大して外国語を知らなくても国際生活を享受できるのは、こうした明治期の学者達が外国語辞書を整備してくれたお陰です。

日本で待っていた人達は、諸外国の知識を持っている先生から学ぶしかなかったのだと思います。

それだけ、「先生が知っている情報と受講者が知っている情報の差」が多かったのです。

誰でも情報が手に入る

一方通行
ところが、現在は、いくらでも情報を得られるようになっています。
どこからって?
やっぱり、ネットの存在は大きいですね。

ブログをはじめとしたSNSの普及で、さまざまな情報が入るようになりました。
ただし、断片的に。
それに、情報の信憑性や正確性もわかりません。
とわいえ、ニックネームなど、匿名であっても、誰々さんの書いた記事なら「たぶん」正確なのだろうという判断はできます。ちきりんさんのブログ「Chikirinの日記」やパオロ・マッツァリーノさんの「反社会学講座ブログ」などは書いている人の本名や素性がわかりませんが、人気で、書籍としても出版されています。

でも、巨大匿名掲示板の書き込みなどは信憑性はわかりません。掲示板の書き込みのソース(情報源)を探したら、別の匿名掲示板を又引きしていたりすると途端に信憑性は怪しくなるわけです。

もちろん、ちゃんと信憑性の高い論文やら、私の専門であるIT業界はホワイトペーパーも情報になります。
そうした情報はネットのみならず、直接、担当者から聞いた話や公式印刷物もソースになりえます。
スキルや立場によって入手する方法はさまざまでしょうけれど、秘匿性の高い情報などは、そうそう存在するモノではありません。たまに、政府の一部の人間しか知らない秘匿情報を知っているという人がいますが、そもそもそのヒミツの情報をどうやって入手したのでしょうねぇ。しかも、なんでそんな貴重な情報を教えてくれるの?

出版社や新聞社では裏とりをしますから、怪しげな情報や断片的な情報や信憑性はふるいにかけられて、専門のウェブサイトにまとめられます。
こちらは、個人ブログではなく商用サービスですから、正確性も網羅性も高くなります。
すくなくとも現場の取材にオーケーを出す編集長がいるでしょうから、掲載前にチェックするはずです。

こうして、情報が広く行き渡ると、受講者も入手可能な情報を仕入れそれなりに知識を付けた上で参加します。
むしろ、部分的には講師より詳しい受講者も参加するわけです。

そうはいっても、プロの講師も多いわけで・・・

講師は講師でプロなので、少なくとも情報を体系的、網羅的に把握しています。
部分的にとりわけ詳しいわけではなくても、全体像を把握できていなければ講師は務まりません。
そうでなければ、どの部分の議題を話をしているかさえ、見当が付かなくなります。
重箱の角だけではなくて、重箱の全体に気を配らなければ商品にならないということです。

別に、「だから講師はエライ」というつもりではありません。
単に、役割の違いなのです。
講師は仕事として、そうした情報の網羅に時間を使っているということです。

受講者は本業に力を注いでいるのと同じように、講師は情報の網羅と解りやすく説明することに力を注いでいるのです。


まあ、そうはいっても部分的に受講者が詳しければ、素直にその知識を披露してもらえれば授業の質も上がります。
ここで、講師が知識を張り合っても意味ありませんもの。

一方通行の講師は不要だよね?


そうなると講師は知識を一方通行で伝える先生では、いられないということになります。

情報という討論材料を配った後、意見整理をするファシリテートが講師の仕事になります。
議題の着地点を考慮しつつ、方向をコントロールする役割がファシリテーターです。

ファシリテーターは、先生じゃありません。
議論の進行に注意をはらう信号機のような役割です。

自動車が道路を走っているときに、信号機を崇め奉る(あがめたてまつる)事なんて、しませんよね。
なんだか、情報が行き渡っている状況になった現代において、カリスマ講師なんて崇める(あがめる)こと自体が、滑稽な感じがします。
カルトの教祖様か? 気持ち悪い・・・と思ってしまうのです。

知識を得るための勉強の時代は終わって、受講者が何かを成し遂げるためのお手伝いが講師の役割だと思うのです。
あくまでも主体は、受講者であるべきでしょう。

偉そうな先生だったら、滅んでしまえ!

不要なもの
たとえるなら、偉そうにエバっている寿司屋の店主が、やれ食べ方が違うとか指導するようなものですかね。
歴史をたどれば、寿司なんて元祖ファーストフードですから。
オマエに食べさせる寿司はネェっ! と威張っているうちに、呆れたお客様は回転寿司にいってしまうと思うのです。
すると、回転寿司は寿司じゃネェっ! って誰もいない店の中で憤る(いきどおる)のですよ。

あくまでも、主体はお客様ですから、店主の一方的な独演会に付き合う人は、よほど物好きだけです。

カリスマ講師と呼ばれている人は、これと同じように思えます。

まとめますと、情報の非対称性が存在する場合には先生と生徒というスタイルは必要です。
ですが、情報がまんべんなく渡って、受講者自身で吟味できる状態になったら、講師は一歩下がってファシリテーターになろうと言いたいのです。

企業研修の担当されている方は、すぐに成果が表れる研修を望みます。
新人研修や新技術の研修なら、情報に非対称性があるので、それでも構わないでしょう。

しかし、会社の将来を担う人財(←誤字じゃ無いです)となれば、みずから考えて行動できる人が必要なはずです。
過去には、みずから考えて行動できる人が邪魔な時代がありました。
勝手に行動されると企業としては困るわけです。

企業は自分から考えて動ける人を育成

ところが、状況が変わってきました。
大企業であることの優位点が少なくなっているのです。

大企業の優位とは何でしょう。
同じ事を最大限に効率よく進めるには、優秀な人間が号令通りに手順を守って進めることです。
ということは、大量に優秀な人間を雇うこと。
これが、大企業の強みです。

ところが、あらゆるものが行き渡ってしまうと、同じ事が減ってしまいます。
つまり、定型作業が減って、例外ばかりになってしまうのです。
現在、例外ばかりが増殖中です。

例外に対処できるのは、考え続けられる人間の養成だけです。
だって、例外の対処には、手順書が無いのですから。

顔が見えない企業はダメだろう?

こうした状況には、看板となる顔が必要になっているのです。

デザインにしてもビジネスモデルにしても個人の才能が、クローズアップされてきています。
顔が見えない仕事よりもスティーブ・ジョブズのような、ジェフ・ベゾフのような、マーク・ザッカーバーグのような、佐藤可士和のような、宮崎駿のような、秋元康のような、柳井正のような看板を持っていると安心できるのです。

これは、カルト教みたいになっているカリスマ講師とは違います。
カルト講師は、自分だけの内側を見ています。
一方、看板になっている人達は、自分とは逆、外側を見ているのです。

ここで看板として挙げた人は、著名人ばかりです。
例に挙げるには、無名の人を挙げても、それって誰?となってしまうからです。
もちろん、会社の中にいながらも個人を発揮している人はたくさんいます。

そうした人を養成しなければ、会社には未来がありません。

わたしが教科書を使う授業は古いと言っている理由



社会人教育で、教科書を使った授業は古い
わたしが教科書を使う授業は古いと言っている理由

とりわけ社会人教育におきましては、教科書を使う授業は古いと考えています。

答えを教えたら、そこで思考停止してしまうということです。
教科書に書いてある答えは正しいのだろうか? という状況判断する人も中には居ます。
でも、それは少ない。

フッ・・・若僧が上司へ意見なんか10年早いわ!!

もし、会社で先輩、もしくは上司が指示をしたときに「これは、こうしたほうがいいのじゃないですか?」と部下が質問してきたとします。
すると、上席にいるものは、反論と捉えるのです。
部下の意識は、あくまでも僭越ながらの提案なので、反論している気はサラサラありません。

日本の企業は上意下達の時代を長く続けていましたから、部下は言ったことをその通りに進行するのが当たり前なのです。
今までそうだったから、これからもそうだと言うことです。

こうした、文化が定着するとあるときから、明文化した方がわかりやすいと考えられるようになります。
いわゆる事業継続計画(BCP)の流行も後押しして、続々とマニュアルが作られるようになったのです。
こうして文化のマニュアル化が進みます。
マニュアルとは、つまり、答えです。

マニュアルに毒されるとどうなるか?

以前に中途採用の社員からこんな事を言われました。
大企業から中途採用で零細企業に転職した社員の第一声は、この会社は「マニュアルも」ないんですね。

そりゃ、大企業だからこそ、過去の実績はあるし貯金もあるし、福利厚生の一環で無料のドリンクコーナーも「マニュアルも」あるでしょう。

しかし、零細企業はこれから積み重ねていくわけです。
もちろん、年々細くなっていく会社も在りますけど。

この「マニュアルも」ないがクセモノなのです。

その声を上げた転入社員は、マニュアルがなければ、つくれる立場にいるのですけれど、そこには思い当たらないのです。
マニュアルがないことに対しては、ぶつぶつ言いながらもマニュアル自体は作らないのです。

自分自身では気が付いていないでしょうけれど、心理的にはマニュアルに書かれていることをやっていれば、失敗したとしてもマニュアルのせいです。
もしマニュアルがないと、失敗したときには自分のせいになるのが恐いのです。

さらに、問題なのは、マニュアル仕事をずっと続けていれば、発想がマニュアルに規定されてしまいます。

失敗が恐いという言い訳のためのマニュアルが利用できることに加え、マニュアルを超える発想が出にくいわけです。

あなたの会社にもある謎の儀式

サルとバナナ
サルとバナナの物語があります。
知らない人もいるかと思いますので、引用します。( http://diamond.jp/articles/-/16331?page=2 
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檻に入れられた5匹のサルがいた。
檻の中にはバナナが吊り下げられ、その下には階段があった。
早々に1匹のサルが階段を上ってバナナを取ろうとしたが、階段に触れるや否や、サル5匹全部に冷たい水が浴びせかけられた。
しばらくしてから別の1匹がバナナに挑戦したが、またも5匹全部が冷水を浴びる結果になった。
もう1匹が階段を上ろうとすると、他のサルたちがそれを止めるようになった。

 その後、冷水を出ないようにしてからサルを1匹入れ換える。新参のサルはバナナを見たら、階段を上ろうとする。
驚いたことに、他の4匹は新参者を邪魔する。
もう1回の挑戦と挫折とを経て、新参のサルは、階段を上ろうとすると仲間から攻撃されることを学ぶ。

 続いて、さらに1匹を入れ換える。こちらも階段を上ろうとして邪魔される。
1つ前に檻に入ったばかりのサルも邪魔する側に、しかも熱心に加わる。

 3匹目のサルも交換する。今度も階段に足をかけると攻撃を受ける。
攻撃をする4匹のうちの2匹は、なぜ階段を上ることを邪魔するのか、実はその理由をわかっていない。

 こうして4匹5匹と全てのサルを交換してしまう。
つまりバナナを取ろうと階段に手をかけて冷たい水を浴びた経験があるサルは全て外に出されてしまった状態だ。
なのに、階段を上ろうとするサルはいなくなる。どうしてだろう? 
サルたちの知る限り、それが檻の中での前提条件となっていたからだ。
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これ、そもそも何が問題で階段を登ってはいけないのか? といった檻の中での前提条件は疑問にならなくなるのです。
問題にならないと言うより、疑問視せず、社内の常識として振る舞ったほうが優秀な社員と評価されます。

おかしな前提を残したままにマニュアル化

その状態のまま、マニュアルが作られたらどうなるのか?
マニュアルは明文化された答えです。
企業としての常識はマニュアル化されてさらに批判しにくくなります。
外野から見ればおかしな事ばかりですが、関係者はおかしく思わなくなります。
毎日毎日その状況を見ていれば、それが普通の状況になるから。

もし、こうした毎日の状況が変わって、前提条件が変わったとしてもマニュアルは残るのです。

これ、企業では無くてもっと大きなレベルの話になると社会常識になります。
その社会常識は、そのときどきで変化するはずなのです。

例を挙げると日本では、女性は働かないで家を守れという常識がありましたでしょ?
奧さんとか家内という呼び方は、家の奥にいたり家の中に居るからという名残です。

現在の社会常識を元に教科書をつくって、思考停止してしまう状況が恐いのです。

教科書が金科玉条となると、もう、そのまま受け入れるしかない。

マニュアルを一切否定する! とは言っていません

繰り返しますが、マニュアルにしても教科書にしても必要なジャンルはあります。

たとえば、たくさんの例題を解いていくうちにパターンとして身に付けることはできます。
こうした、漢字ドリルや、計算ドリルなんて、まさにそういう練習です。
このジャンルなら、それはそれで、教科書を使った方が効率が良いのです。

答えが出せないような問いに対して、あたかも答えがあるように振る舞うことはそろそろ辞めにしませんか? という提案です。
定説は定説としてかまいませんし、会社の方針だからと言う答えも否定はしません。

ただ、「世の中には、たった1つの答えがある」という幻想を無くして欲しいのです。
勘違いして欲しくないのは、漢字ドリルや計算ドリルのように明確に答えがあるタイプの話をしているのではありません。

答えが無い問題に対して、あたかも答えがあるような振る舞うことをいうのです。

例を挙げると一生懸命に働けば、ドンドン出世して安心の老後を迎えられるという答えです。

すると、倒産した会社やリストラされた人は、一生懸命に働いていなかった報いなのでしょうか?
また、ベントレーやらフェラーリに乗ってプライベートジェットの旅をするお金持ちは、マジメ一筋でコツコツに働いた成果なのでしょうか?

どちらも違うと思います。
昔から言われていることに、人の世はままならないものです。
負ける人がいなければ、勝つ人はいないのですから。

まとめると、世の中で正解か不正解かわからないものをマニュアル化するな。ということがこのコラムで伝えたいことでした。

あなたの会社でも、マニュアルがないことと、マニュアルがあったとしても、このマニュアルで本当に良いのかを疑ってください。

新たな気付きを得られます。

わたしの仕事は、気付きのお手伝です。気になったことがありましたら、ご一報ください。
ソウキャクエイギョウケンキュウショ

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